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こんにちは、naoです。
今日は伊丹万作氏の『戦争責任者の問題』という題目の寄稿を紹介します。
伊丹氏は、これらの寄稿の中で、太平洋戦争を振り返り、次のように述べています。
『あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。』
『そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。』
伊丹氏はこれを戦後1年も経たないうちに書いており、内容も実に的確に核心をついておられます。
さて、私が何を言いたいかと言いますと、他責、傍観者意識のままでは、何も変わらないという事です。
変わらないどころか悪事の加担者としてより深刻な状況を招くことになります。
同様の教訓は、様々な分野で語り継がれています。
例えば、落語に『らくだ』という演目があります。
噺は是非寄席で楽しんで頂きたいので、割愛しますが、要点としましては、自分は被害者だと言っているその人こそが、悪事の首謀者・加担者となっているということも往々にしてあるということです。
被害者か加害者か。善か悪か。
二元論のどちらかに自分を当て嵌める事に意味はありません。
どちらでも同じ事です。
どちらかに自分を当て嵌めようとする限り、そのシステムは存続し続けます。智慧を身につければ、自分は被害者にならず、相手を加害者にすることもありません。
心がそれに賛成し兼ねるなら、そこから抜け出た視点に立たねば変わらないのです。
それが自分の尊厳を守り、自我を持った人として生きている姿だと思います。
人間が『奴隷』ではなく『人』として生きている姿だと思います。
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